2011年冬。私の担当患者さんが亡くなりました。私がもっと早く腰痛に気づいていれば、もしかしたら死なずに済んだかもしれません。これが私がこの会社を始めた理由になります。
はじめまして。株式会社ふっか代表取締役の松田圭太と申します。まずはこのページを読んでもらってありがとうございます。「ふっか」はもともと、開業当初「福佳」という漢字でした(整体院福佳~fukka~として開業)。福岡の「福」に、美しい人や良い、喜ばしいなどの意味も持つ「佳」からなり、福岡にルーツを持つ会社になります。
なぜ、この会社が始まったのか?私は誰なのか?少しだけ話をさせていただければ、先生の現状をぶち破る力になるかもしれません。
少し、私の話をさせてください。
生まれは九州の宮崎県で、電車ではなく汽車が2時間に1本くらいしか走らないど田舎で生まれました。私の家は片親で、母が3人兄姉を一人で育ててくれました。末っ子だった私は甘え上手で、母のことが大好きだったのを覚えています。
正直、裕福な家庭だったかと言われれば、そうではなかったです。月1.2万円の家賃の家に住んでいましたし、好きなもの買いたいと小さい時に言ったことはほとんどなかったと、大人になってから母に聞きました。
中学校になると部活でバスケを始めました。今まで一生懸命何かに取り組んだことなかった私が、初めて、何かに熱中しました。今の私の根性論とかやる気とかはこの辺で磨かれた気がします。
正直厳しい部活動でしたが、私にとっては、とにかく楽しくて24時間寝ても起きてもバスケのことばかり考えていたのを今でも覚えています。
高校3年生の夏。バスケの最後の大会が終わると同時に、私の人生が一度止まりました。バスケだけで生きてきたので、就職、進学など将来したいことも何もなかったんです。学校では進路が決まっていない最後の一人として担任にはすごく迷惑かけたと思います。
悩んでいる時、担任から体を動かすのが好きならこんな仕事はどう?と勧められたのが「理学療法士」という病院でリハビリをする仕事でした。何もわからず、どんな仕事かも知らずになんとなく受験して、合格し、私の理学療法士への道のりがスタートしました。
「自分のケガを理学療法士に施術してもらって」「おばちゃんを私が改善してあげたくて」という周りの仲間たちの志望動機とは裏腹、私はなんとなくで入ったので、正直目標も何もありませんでした。
ですが、実習で病院に行って患者さんにありがとうと言われ感動したり、勉強して体の構造がわかり施術すると痛みが改善したりする経験を通して、「この仕事楽しい!」と一気にはまっていきました。バスケが無くなって空いていた心の穴に、また火がついたかのように勉強していました。そこから勉強し学校を卒業し理学療法士になりました。
「半年で30人」。
これは私が病院で働き出して半年で亡くなった担当患者さんの数です。
「半年で30人」。
私が働いた病院は慢性期病院と言って、ガン末期の患者さんや、肺炎で寝たきりになっているような患者さんまで、たくさんの患者さんがいます。そこで「死」というものと強制的に見させてもらいました。そして自分の無力さを知りました。
「半年で30人」。
何も出来なくて悔しい思いと、患者さんに申し訳ない気持ちの2つの感情は今でも、私がこの業界で頑張る活力になっています。この時、そんな中でも何か患者さんのためにできないか?と朝も夜も必死に勉強しました。挫折しそうになるたび、亡くなった患者さんの顔を思い出しながら毎日がむしゃらに施術に時間をつぎ込みました。
ですが病院勤務歴3年、私は挫折しました。ある患者さんとの出会いと別れがきっかけです。
その患者さんはTさん。私が入職当時から担当した患者さんです。入院後も圧迫骨折後の腰痛で毎月1~2回程度通院してくれていた背の高い70代のおじいちゃんです。毎回めんどくさそうにリハビリ室に来ては、文句を言って帰っていく患者さんです。
Tさんがある日「苦しい…リハビリをしたくない」と言いました。またいつものめんどくさいから言っているんだろうと思っていましたが、あまりに苦しそうなので、医師にお願いして検査してもらったところ、「肺がんの末期」で余命1ヶ月と宣告されました。
考えると、半年前くらいから苦しい苦しいと言っていました。そんな患者さんにバタバタ施術して、ちゃんと向き合わず、施術を流していたのです。施術もそこそこできるようになり、部下もでき、浮かれていたんだと思います。 そこから容体は一気に悪化し、呼吸器が入り、たった1ヶ月で、全身は固まり、息するのがやっとの状態で、うなづくしかできなくなったTさんがいきました。
助けられなかった自分への罪悪感と劣等感で申し訳ない気持ちでいっぱいでした。そして最後の日、リハビリで部屋を訪れると、Tさんが私を見て何かを伝えようとしてくれています。「もう最後かも…」と私はうすうす気付きながら、Tさんの口元に耳を寄せると、一言かすれる声で「いつも…いつも…言おうと思ってたけど…ありがとう」と言ってくれました。
その時初めて患者さんの前で泣きました。涙を止めれなかったです。悔しくて、悔しくて泣き崩れたことは今でも昨日のことのように思い出します。
翌日朝、Tさんは亡くなりました。何もできなかった自分へかけてくれた「ありがとう」の価値は私には計り知れません。あと何回呼吸できるか、何回言葉を出せたか、そんなことも分からない中で自分へ言ってくれたこの感謝の言葉が今の私の心の中に生きています。
私自身、順風満帆の人生だったかと言われれば、全くそうではないです。壁にぶち当たり、潰れそうになりながら、なんとか食いしばって、折れそうになる自分にムチを打ちながら、今があると思います。
そして、そのおかげで、今ありがたいことにたくさんの患者さんを改善できるようになっていると思います。
もちろんまだまだ微力ですが、いろいろな経験が私の今を作ってくれていることは間違いありません。
ですが、私1人では改善できる人の数には限りがあります。到底、社会をかえるようなパワーはありません。私の使命は、「痛みを改善してやりたいことができる」そんな環境を作ることです。私のかわりにあなたの痛みを解消できるメンバーがふっかにはいます。私1人ではできないことを、会社のメンバーとなら実現できると本気で思っています。
まずは、慢性痛で悩む方の第一選択になること、そして痛みで悩むすべての方にとっての「痛みの第一選択」になれるよう今後も走っていきます。痛みで悩んだら、「ふっか」に行けば大丈夫!そう皆さんに思っていただけるよう真伨に、痛みに悩む方々に向き合い続けます。